リョコウバト(Ectopistes migratorius)はかつて北米に生息した。主に北米東部の落葉樹林に生息し、五大湖周辺で繁殖した。常に巨大な群れを成して餌や休める場所、繁殖地を求めて移動した。一時は30億から50億羽いたとされ、北米で最も数多く生息した鳥類である。当時北米に生息していた陸鳥全体の25〜40%を占めたとされている。1866年にオンタリオ南部で35億羽以上からなる巨大な群れが見られた。その範囲は幅1.5 km、長さ500 kmにおよび、通り過ぎるのに14時間もかかったと伝えられている。
リョコウバトの剥製@パリ自然史博物館 (画像をクリックで拡大表示)
リョコウバトは集団生活を行うため、大群で休むことができ、その数を養える量の餌がある場所をねぐらに選んだ。その範囲は数km²から260km²以上になることもあった。大群で木の枝にとまるため、その重みで太い枝が折れることもあった。またその下にはリョコウバトの糞が 30cm以上堆積していることもあった。
リョコウバトの博物画①(画像をクリックで拡大表示)
リョコウバトの博物画②
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リョコウバトの博物画の博物画③
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日中は森を離れ、開けた土地で餌を探した。朝早くにねぐらを出発し、夜戻るまで100〜160km先まで飛んで餌を探した。主にどんぐりや木の実を餌としたが、夏にはブルーベリーやブドウ、繁殖期には無脊椎動物も捕食した。ほかには栽培された穀物、 特にソバの実をよく食べた。また塩分を好んでおり、塩水の湧水や塩土壌などから摂取していた。
リョコウバトの近縁種オビオバト
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切手にデザインされた リョコウバト
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リョコウバトは非常に早く飛ぶことができ、その体は飛行中のスピードに適応していた。耐久性、操縦性に優れた翼はとても長く、先がとがっていた。尾は長くV字形をしていて、中央に長い中羽が2本あった。体は細く、頭と首も小さかった。また力強い飛行を示すように胸筋が非常に発達していた。これらの特徴から時速100㎞で飛べたことは決して不思議ではない。
約40億羽で500kmにわたって空を埋め尽くすリョコウバトの群 (画像をクリックで拡大表示)
本種はオスとメスで大きさと色に違いがあった。体重は260〜340g程で、オスの成鳥で体長は約39〜41cm、背面が主に青灰色で、腹面はやや薄い色。首の羽毛は玉虫色に輝く赤茶色で、 翼には黒い斑点があった。尾の2本の中羽は茶色がかった灰色だが残りの羽は白かった。のど元と胸は濃いピンクがかった赤茶色だが、下にいくほどピンクが薄くなり腹と下尾筒は白かった。くちばしは黒で、足は明るい赤。目は深紅色で回りには赤紫の細い隈取りがあった。
リョコウバトの卵@トゥールーズ自然史博物館
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1912年に生きた姿で撮影されたリョコウバトの「マーサ」
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メスはオスよりも やや小さく全体的に地味な茶色で、首の両側の羽毛も玉虫色に輝くほどではなかった。のど元と胸は黄褐色がかった灰色で腹から下尾筒にかけては 白っぽかった。足は薄い赤で、目はオレンジがかった赤、囲眼輪は灰色がかった青だった。
LOST ZOO リョコウバトの放飼場風景
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リョコウバトはもともとネイティブアメリカンによって狩猟されていたが、19世紀にヨーロッパ人がやってくると射撃競技の対象とされ狩猟が激化した。加えてリョコウバトの肉は安価な食べ物として売られたため、何十年にもわたって乱獲された。本種を絶滅に追いやったもうひとつの原因は、森林伐採による生息地の破壊である。1800年から1870年の間にゆっくりと個体数が減り、1870年から1890年にかけて急減した。そして最後の野生のリョコウバトが1901年に撃ち落とされた。 リョコウバトの歴史は現代への警告で、絶滅の危機に瀕した鳥類を救うには野生下で危機的な状況に陥るずっと前に、小宮輝之氏のような飼育経験豊かな鳥類学者や専門家によって保護されなければならないということを教えてくれた。しかし、19世紀の終わりには残念ながらそのような飼育経験豊かな専門家などいるはずもなく、研究知見もなかった。そこで、まずは残ったリョコウバトを3つのグループに分け繁殖を試みた。しかしそれぞれ少数しか個体のいないグループ内で繁殖が成功することはなかった。最後のリョコウバト「マーサ」は1914年9月1日にシンシナティ動物園で死亡した。それから100年以上が経った今、ようやく我がLOST ZOOで再びリョコウバトを展示しはじめた。旅を続ける『どうぶつのくに』の100号記念を祝うにふさわしい、この素晴らしい鳥を篤とご覧いただきたい。
LOST ZOOキュレーター ユルゲン・ランゲ