先日、我々が訪米した際、特にマサチューセッツの海岸地帯を訪れた縁もあり 我がLOST ZOOのためにヒースヘンのつがいを導入することとなった。
ヒースヘンの剥製@フィールド自然史博物館(画像をクリックで拡大表示)
北米のヒースヘンは、日本の富山や長野のニホンライチョウと同じ、ライチョウ属に 分類される。そのためニホンライチョウとよく似ているが、鼻孔には羽が生え ており、足もつま先まで羽毛に覆われている。ヒースヘンはニューハンプシャー 州最南端からバージニア州の北部、またその周辺沖合の島などニューイングラ ンド沿岸部の、鬱蒼とヒースが茂る荒地に生息するのが名前の由来である。
在りし日に撮影されたヒースヘンの写真①
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在りし日に撮影されたヒースヘンの写真②
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しかし、そのような激しい乱獲のせいで、ヒースヘンの個体数は急激に減少した。早くて1840年代、遅くても1870年代には本土のすべてのヒースヘンが絶滅し、マサチューセッツ州沖の島、マーサズ・ ビンヤードに300羽が残るだけとなった。しかし野生のネコ類による捕食や、密猟によってその数はさらに減少し1890年までに120~200羽、1800年代終わりには約70羽が残るだけとなった。その後、密猟禁止法で保護されるようになり、1908年には「ヒースヘン保護区」が制定されたこともあって、個体数は急激に増加し再び2000羽近くになった。1910年代半ばにはヒースヘンの求愛行動の見学が観光名所ともなった。
ソウゲンライチョウ
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テキサスソウゲンライチョウ
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ホソオライチョウ
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ヒメソウゲンライチョウ
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しかし、そのような激しい乱獲のせいで、ヒー スヘンの個体数は急激に減少した。早くて1840年代、遅くても1870年代に は本土のすべてのヒースヘンが絶滅し、マサチューセッツ州沖の島、マーサズ・ ビンヤードに300羽が残るだけとなった。しかし野生のネコ類による捕食や、 密猟によってその数はさらに減少し1890年までに120~200羽、1800年代 終わりには約70羽が残るだけとなった。その後、密猟禁止法で保護されるよう になり、1908年には「ヒースヘン保護区」が制定されたこともあって、個体数 は急激に増加し再び2000羽近くになった。1910年代半ばにはヒースヘンの求 愛行動の見学が観光名所ともなった。
ヒースヘンの博物画(画像をクリックで拡大表示)
しかし1916年、繁殖期に生息地で大規模な自然火災が起こったこと、次いで非常に厳しい寒さの冬、近親交配と過剰な数のオス、更にはニワトリから伝染したと思われる病気の蔓延などの原因で、 あっという間に個体数は減少してしまった。最終的に1920年には600羽まで 回復したが、再び数を減らし1927年には約12羽だけとなった。そのうちメスはたったの2羽で、その年の終わりにはごくわずかなオスだけが残る結果となった。1928年12月以降生き残ったのは、たった1羽のオスだったとされる。いわゆる「ブーミング・ベン」と呼ばれたオスだが、いつもの求愛行動の場所で彼の姿が見られたのも1932年3月11日が最後となった。ブーミング・ベンは 約8歳で、死因は不明だが、なんらかの異変が起こった数日後または数時間後に死んだと推定されている。
1933年4月の新聞記事(画像をクリックで拡大表示)
ヒースヘンはアメリカ人が絶滅の危機から救おうとした最初の鳥の種であった。早くも1791年に「ヒースヘンと他の動物の保護」のための法案がニューヨークで制定された。ヒースヘンを絶滅から救う努力は成功に終わらなかったものの、その後の鳥類保護の道は開けたと言えよう。
LOST ZOO ヒースヘンの放飼場風景
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最後のオスが自然界で目撃されてからちょうど85年後、我がLOST ZOOでこの興味深い北アメリカの鳥を展示することができ、またジャイアントバイソンと同じ広い放飼場で、この珍しいヒースヘンを一緒にご覧いただけることをとても嬉しく思う。この両種が広大な北アメリカの平原とその動物誌を物語ってくれることだろう。
LOST ZOOキュレーター ユルゲン・ランゲ